江戸時代の交易拠点「山湊馬浪」復活プロジェクト事業
当事業は、新城市が江戸時代の交易拠点として栄えた姿の比喩「山湊馬浪」を復活させるべく、行き交い浪に例えられた馬を現代の荷車“軽トラック”に置き換え、広域物流を先導することにより新城ブランドを全国に発信するものである。
《事業のポイント》
①名所・旧跡、祭り、伝統行事などの多くの地域資源に訪れる全国からの観光客などに対して最高のサービスをもっておもてなしすること。
②市内外の農業、水産業、商工業、観光が互いに連携をとりながら、地域資源を生かし育てること。
③本事業に関る人が経済力を高めることで地域全体が活力を上げることに寄与すること。
山湊馬浪(さんそうばろう)の由来
江戸時代における「新城」は伊那街道の主要な町で、信州方面の物資は信州中馬や三州馬(それぞれ駄賃かせぎの馬方で、二〜四頭だてで荷物を運んだ)によって新城へ運ばれ、川船に積みかえて豊川を下った。
また豊橋方面の物資は川船で新城へ運ばれ、馬の背に積みかえて信州方面へ送られた。
即ち、新城はこの馬の背の陸運と川船の舟運の結節点として繁昌した。
旧来「山湊馬浪」といわれるのは往来する馬を浪にたとえ、その馬の浪が入ったり出たりする新城を山の湊といったものである。
また物資を積んで豊川を上下する川船(記録では112そうとある)が発着する新城は、まさに海ならぬ、山の湊にぴったりである。
この交通の便と物資の集散は商業をさかんにし、富商を生むと同時に町には大きな商店や問屋が建ち並び、宿屋、茶店、遊女町まであって市況は活発であった。
こうした町のにぎわいは「参河国名所図絵新城繁昌の図」や「山湊馬浪」の言葉で当時をしのぶことができる。(引用文献:『新城市三十年誌』より)